FC2ブログ
低価格で通い放題! ウスイ学習教室 http://usuijuku.com/
承久の乱を考える。
2019年11月28日 (木) | 編集 |
昨日、中3の国語の授業で「新古今和歌集」を扱った。
そのとき「後鳥羽上皇の勅命でつくられた八番目の勅撰和歌集」という話をしてから、中3生に「なぜ、後鳥羽上皇は承久の乱を起こしたのか」という話をした。
一応、「幕府打倒をはかった上皇。公家政権の回復に努力」と用語集では紹介されている。
それを後鳥羽上皇の心理から考えてみたい。

史実によれば後鳥羽上皇は1180年生まれ。
わずか3歳の1183年に天皇として即位している。
そこから15年後の1198年、自分の息子を天皇として同じく3歳で即位させ、自分が院政を行っていたとされる。
このとき、なんとわずか18歳である。
その後、1221年の承久の乱まで院政を実施。
息子2人を天皇として即位させ、自分が院政を行っていたのが23年間。
つまり、41歳で承久の乱を起こしたということだ。

ここで考えたいのが、後鳥羽上皇の父と兄。
後鳥羽上皇の父は高倉天皇。
兄は安徳天皇。
安徳天皇の母は建礼門院徳子。
徳子は平清盛の娘である。
つまり、源氏の「敵」だったということだ。
そして、高倉天皇は1181年に亡くなり、兄の安徳天皇が2歳で即位。
ただ、このときすでに源氏の反乱は始まり、清盛は同年死去。
強力な存在を失った平家一門は敗走し、1185年壇ノ浦の戦いで敗北。
このとき、兄安徳天皇もともに亡くなっている。

つまり、後鳥羽上皇の即位年を考えると、すでに源氏の力が強くなり、政治は公家の力では動かせなかったと考えられる。
3歳の子どもに、自分の置かれた境遇を考えろ、と言っても無理な話。
では、いったい、誰が「公家政権」の話をしたのか。
ここに絡んでくるのが、祖父・後白河法皇ではないか。

後白河法皇は1192年まで院政を行っている。
1192年といえば「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」である。
鎌倉幕府成立と同年に祖父・後白河法皇が死去。
しかも後白河法皇は「平清盛や源頼朝と争い、権謀術数(けんぼうじゅっすう:相手を巧みにあざむくはかりごと)を用いて、王朝権力の確保をはかろうとした」人物とされる。
12歳の孫にその達成を託し亡くなったとすれば…。
後鳥羽上皇は祖父、父、兄の無念をずっと持ち続け、「機会」をうかがっていたのかもしれない。

後鳥羽上皇は1239年、59歳で亡くなっている。
ちなみに、「新古今和歌集」選定の勅命は1201年。
このとき後鳥羽上皇は21歳。
完成は1210年以降とされるが、後世まで名をとどろかせる和歌集を選定するした優れた歌人でもあった。
その人物が「倒幕」の反乱を起こしたという。
にわかには信じがたいが、上記のように「誰かに影響された」と考えれば、つじつまが合う。

歴史は「人」が主人公。
教科書にたった数文字だけ登場する人物にも、その人の生まれ、育ち、考え方がある。
こうやって歴史を想像しながら、勉強してみよう。
歴史は「絶対に面白い」のだ。

今は、民放で時代劇をやらなくなり、大河ドラマも近現代が多くなった。
(近年では三谷幸喜脚本の大河ドラマ「真田丸」はすばらしかったと思う。あれは機会があれば見てほしい。歴史観が変わる)
だから、いろいろ歴史の本を読み、歴史の漫画を読み、用語集を見て、そして、考えてみよう。
絶対に、面白い発見があるはずである。


※訂正:昨日の中3の授業で「高倉天皇が~」の下りを話しましたが、後鳥羽上皇が幼年期に高倉天皇は亡くなっていました。
中3生、ごめんなさい。
スポンサーサイト




コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック